#24『I got rhythm 音楽が生まれる時』 概要と選曲リスト

是非これを見ながら聴いてください!


今月のテーマ:「CITY POPPIN’ TIME」(第2回:シティポップの誕生)
パーソナリティ:松永良平(音楽ライター)


<番組のトーク・パート(概要)と選曲リスト>

― 今月は、今再び注目を集めるAOR/シティポップにフォーカスして、その背景を紐解いていきます。
今回は、日本のシティポップの誕生の背景に迫ります。

 「シティポップ」という言葉は、日本で作られた言葉で、海外には無い言葉です。
1970年代前半~半ばの音楽シーンは、フォークや、のちのニューミュージックが全盛で、シティポップの人気はそんなになかったと言われていますが、シティポップと呼ばれる音楽を作ろうとしていたアーティストは、その当時の最先端の洋楽を聴き、その技術やアレンジを自分たちの音楽に取り入れて、新しい音楽を作る動きをしていました。
 そして、1970年代半ばには、都会的な音楽性を意識的に志向したバンドやアーティストが登場してきます。山下達郎、大貫妙子が在籍したシュガー・ベイブや、ブレッド&バター、南佳孝、吉田美奈子といった、様々な新しい才能が、シティポップの源流を作っていくことになります。

1「ピンク・シャドウ(Live)」山下達郎
 山下達郎がブレッド&バターの曲をカバーしたもの。「ピンク・シャドウ」は、1990年代の「渋谷系」と呼ばれる音楽が流行していた時代にも、アンセム的に取り上げられる有名曲ですが、山下達郎がこの曲をライブでカバーしたのは、1970年代後半で、この曲が発表されて間もない頃でした。

―70年代半ばのシティサウンドを支えた重要なバンドの一つに、ティン・パン・アレイがあります。
細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆を中心としたサウンドプロダクションで、色んなアーティストのプロデュースやバックを担当することで、のちにシティポップと呼ばれる数々の名作が生まれました。ティン・パン・アレイは、シンガーソングライターだけでなく、歌謡曲や女優のレコードのバック務め、個性を存分に発揮しました。

M2「私自身」いしだあゆみ & ティン・パン・アレイ・ファミリー
 この曲は、サウンドも特徴的ですが、歌詞もシティポップならではの個性が出ています。「東京湾」「窓」といった、フレームで切り取られた映画のような情景、都市で暮らす人たちの寂しさや切なさ、恋愛感情などを映し込んで、音楽的に高いレベルで成立させている点が、シティポップの特徴と言えます。

―アメリカのAORシーンで代表的なスタジオミュージシャン集団「TOTO」がそうであるように、日本でも数々のスタジオミュージシャンが活躍しています。坂本龍一も、この時代にスタジオミュージシャンとして頭角を現した一人です。

M3「プールサイド」南佳孝
<Spotifyリンク>※ラジオでOAしたものとバージョンが異なる場合があります。

 坂本龍一がプロデュースをした南佳孝の名盤アルバム『サウス・オブ・ザ・ボーダー』から1曲。

―こうして、1970年代後半頃から、日本の音楽シーンの中で、シティポップは徐々に市民権を獲得していきました。
ちょうどその時期に、海外でAORの流行が始まり、日本のシティポップと徐々にブレンドされていくことになります。
そうしたムーヴメントの中で生まれた最大のヒット曲が、寺尾聰「ルビーの指輪」です。

M4「ルビーの指輪」寺尾聰
<Spotifyリンク>※ラジオでOAしたものとバージョンが異なる場合があります。

 この曲は、作詞は「はっぴいえんど」の松本隆、作曲は寺尾聰、アレンジは80年代にシティポップの名曲の数々を手掛けることになる井上鑑、といった最高の布陣で作られました。
 この曲が発売されると、シングルチャートの1位を10週間独占するという偉業を成し遂げ、この年の日本レコード大賞など、数々の音楽賞を総なめにします。
 この曲を集録したアルバム『Reflections』もミリオンセラーを記録し、シティポップと呼ばれる音楽が、当時記録した最高の成績となりました。