荒川:私は1998年の長野オリンピックで初出場させていただきました。
高橋さんは2000年のシドニーが初めてのオリンピックになりますか?
高橋:そうです。
荒川:初めてのオリンピックの時、
オリンピックについてイメージするのが難しかった
記憶がありますが、高橋さんはいかがでしたか?
高橋:私はオリンピックの時は、殆どプレッシャーがなく、
スタート前でも踊っているくらい、リラックスしていました。
ただ、初めからそれが出来ていたわけではありません。
1997年の世界陸上が一つのきっかけでした。
5000mで日の丸をつけたのですが、スタートライン立っても
カチコチで・・・。
観客席にいる小出監督から、「高橋動け!」と
言われているんですけど、
「無理です!無理です!」って言うくらいカチコチでした。
荒川:そんなに緊張していたんですか?
高橋:ただ、その時は自分のレベルがそんなに高くないのに
優勝できるんじゃないかなとか、
メダルを取れるんじゃないかななんと自分に期待をしすぎて、
硬くなりました。
それから3年の間に私はその部分が大きく変わりました。
荒川:それは色々試されたんですか?
高橋:そうなんです!1998年のアジア大会で35度、湿度98%近くになった、
暑い環境の中での大会があったのですが、
その時に自己ベストを4分も更新する事ができました。
その時に私も初めて、オリンピックで金メダルを目指したいなと
思えました。
そして先の事で悩むよりも今頑張る事が大事だと思いました。
今の自分の力を出せばいいや。
思い切りその舞台を楽しもうって思えたことがこのアジア大会では
大きな収穫でした。
荒川:高橋尚子さんと言えば、2000年のシドニーオリンピックで初めて
陸上女子で金メダルを獲得。
初めての境地に踏み込むという気持ちはお持ちでしたか?
高橋:いや、色々な方が金メダルと言ってくれているのと、
私自身金メダルを目指すつもりでいました。
逆に嬉しい気持ちになりました。
直前では、海外のブックメイカーさんが7人だけいろんな競技から
金メダルの候補があげられたのですが、
その一人が私だったんです。こんな大きなブックメイカーに
選ばれたんだから、
よーし頑張ろうっていう活力にはなりました。
また、初めての金メダルだったので、有森 裕子さんが銀と銅メダル、
そして増田明美さんも含めて、今までやってきてくださった陸上界の
先輩方の経験があるからこそ、ここにたどり着けたという
感謝の気持ちでいっぱいでした。
これから若手の選手たちにこのバトンをつなげていきたいなと
思いました。
荒川:シドニーオリンピックの時、どのくらいの成熟度でしたか?
過ぎてしまえばこの時がピークだなと思えるのですが。。。
高橋:私にとって一番のピークは1999年でした。
世界陸上に選ばれていたのですが、2週間くらい前から足が痛くて、
当日の朝、小出監督と話をして諦めようと決めました。
この時は大泣きをしたのですが、
監督が「今、8合目まで山をのぼっていたら、
吹雪になった、そんな中で満足度だけを達成するのであれば、
一回その山を降りて、
もっと高い山に登らせてやるって、
世界陸上の上はオリンピックしかないね。って
いうふうに諦めたその年が今までで一番調子の良いピークでした。
なので、やってみたかったという気持ちはすごくあります。
荒川:だからこそのリラックスがあったのではないですか?
高橋:すごく気楽であったのは間違いないです。
荒川:なるほど。
高橋:1999年に世界陸上を棄権してから、
走り始めたら今度は手の骨折で2カ月間走れず、
最終選考が名古屋だったのですが、1か月前に胃潰瘍と胃痙攣で
入院をして、
そんな中優勝をして、掴んだオリンピックへの出場権でした。
荒川:多くのアスリートが代表に選ばれることにエネルギーを使い、
オリンピックに照準を合わせられなくなる場合が多い中、
フィギュアはそういった傾向が多いのですが、
私自身も調整に関しては、もっと上げたいところ抑えないと、
持たなかったです。
照準はあくまで2月に合わせながらやって、
2月の大会に出られなかったら、
それで終わりという緊張感の中でやっていました。