震災から6年、南三陸町がようやく手に入れた安心安全な場所

中西哲生と高橋万里恵がパーソナリティをつとめるTOKYO FMの番組「クロノス」では、東日本大震災の『被災地の今』をお届けしているコーナー「LOVE&HOPE~ヒューマン・ケア・プロジェクト~」を放送中。

東日本大震災から間もなく6年。3月3日(金)には、宮城県南三陸町の新しいにぎわいの拠点として「南三陸さんさん商店街」が開業しました。その商店街の目の前に佇んでいるのは、ゆがんだ骨組みのまま遺されている防災対策庁舎。

この建物を震災遺構として遺すかどうか、その判断は先送りされていますが、3月8日(水)の放送では、防災対策庁舎で津波に遭いながらも奇跡的に助かり、町の復興をけん引し続けてきた宮城県南三陸町の佐藤仁町長にお話を伺いました。

◆6年かかって、ようやく安心安全な町を手に入れた

震災を風化させないためにも、防災対策庁舎を遺したいと考える佐藤町長がその思いの丈を語ってくれました。

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こうして防災庁舎の話が出来るようになったのは県有化が決まってからです。それまでは解体か保存か……ご遺族の方々の意見が真っ二つに分かれていましたから。

防災庁舎っていう言葉そのもの自体言えなかったですからね、ずっと……。県が20年間県有化しますということを明確に決定して、町民の皆さんから意見をもらって、6割超の方々がこれは県有化すべき、保存すべきという結論が出ました。

でも、20年後(今から14年後)に、町として防災庁舎をどうするのか結論を出さなきゃならないんです。

震災以降、記者会見をほぼ毎日やってきましたが、そのとき記者の皆さんに、『防災庁舎どうするんですか?』って聞かれたときに、(あくまでも)個人の意見ということで私が言ったのは、たぶん震災は風化してみんな忘れてしまう。いつの日か震災を経験していない子たちが大人になって“震災ってあったよね”って、そういう時代が来たときに、想定外の津波っていうのは本当に起こり得ることなんだというのを見せないと、風化がどんどん進んでいくと思うんです。

南三陸町は、東日本大震災で800名を超える方々が犠牲になって……、あれだけの大災害を受けた教訓を伝える役割が我々にあるんじゃないかということをずっと言ってきました。

ただ、そこには紆余曲折がありました。
120年のうち4回、大きな津波の被害に遭いそのたびに犠牲者が出て、財産も失っている。だから、もう二度と津波で命を失わない町を作るということに決めた。それがこの町の復興計画の基本中の基本、高台移転です。

ですから、ここに「さんさん商店街」が出来ましたけど、住むところは“寝ていても安心な場所”というのが町の計画でしたので、それが6年かかりましたけど、今月ですべて終了。

宅地造成で約830戸、災害公営住宅で730戸が完成して、皆さんに次の住処にやっとお入り頂けることになりました。

実は、昨年の11月22日に福島県沖に地震があって津波警報が出たんですよ。そのときに一応、避難指示を出しましたけど、腹の中では、“あ、自分の家に居ればもう安心”と。東日本大震災クラスの津波が来ても助かる。命を失うことはない。そのときに改めて、“安心安全な町を手に入れることが出来た”ということを痛感しました。油断してはダメですよ! 油断してはダメですけど、そこは自負心でここまでやってきました。

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震災から6年、地道に町の復興をけん引してきた佐藤町長の話を聞いた中西は「6年かかりましたけど安心安全な町を手に入れたという自負心。もちろん町長の言う通り油断は禁物なんですけど、ようやくここまできたという気持ちが伝わってきますね」としみじみ。

3月3日、取材で「南三陸さんさん商店街」を訪れてきたばかりの高橋も「仲良くさせていただいている志津川地区のご家族もようやくこの春に仮設住宅を出て高台の災害公営住宅へ入るという連絡をいただいたばかりです。6年間、本当にいろんな思いがあったけれどやっと生活が再建できるのかなという感じがします」と、町民の皆さんが“安心安全な場所”を取り戻しつつあることに安堵していました。