“生き残った者の使命”南三陸の佐藤仁町長が語る3月11日

中西哲生と高橋万里恵がパーソナリティをつとめるTOKYO FMの番組「クロノス」では、東日本大震災の『被災地の今』をお届けしているコーナー「LOVE&HOPE~ヒューマン・ケア・プロジェクト~」を放送中。 東日本大震災から間もなく6年。3月3日(金)、宮城県南三陸町の新しいにぎわいの拠点として開業された「南三陸さんさん商店街」に金曜パーソナリティの速水健朗が訪れてきました。 3月7日(火)の放送では、防災対策庁舎で津波に遭いながらも奇跡的に助かり、町の復興をけん引し続けてきた宮城県南三陸町の佐藤仁町長へのインタビューをお届けしました。

◆あの日、奇跡的に助かった10名で誓い合った

速水「今、防災庁舎の目の前でお話を伺ってるわけですけど、2011年3月11日、町長自ら被災されたときの事は明確に覚えてますか?」

佐藤町長「それはもう忘れられないですよ。目の前にある防災庁舎は、大体12メートルの高さがあるんですが、津波が屋上まで来たんですよ。43人が犠牲になり、アンテナに登っていた職員2人が助かって、それから我々8人は階段に流されて助かった。ただ、そこからがまた大変で、頭から水をかぶって屋上に居たら、雪が降ってくる、風は吹いてくる、ずぶ濡れだし寒くて寒くてしょうがなくて……、でもどこにも逃げようがない、避難しようがないのであそこに居るしかない状況で。小さい頃に津波の2回目3回目は1回目よりも大きいのがやってくるって教えられていたんです。だからあの屋上で津波をかぶって、どこに逃げるのかというと、あのアンテナしかないんですよ」

速水「あの屋上よりも上ということですよね?」

佐藤町長「そう。とにかく上に逃げました。あのアンテナ、太いのと細いのがあるんですけど、手前の太いアンテナに7人登って、細いほうに3人登ったんですよ。今登れって言われたって登れない。アンテナは登るように出来てないので、それに足をかけて上がっていくんだけど、もうみんな血だらけ。それでもとにかく上がって、あそこに4回登りました。……で、助かるときっていうのはいろんな奇跡や偶然が重なるもので、アンテナに登っていた職員の1人が喫煙者で、胸のポケットにタバコとライターがあって、それが活きたんです。朝まであそこで過ごせたのは、流れ着いた木材などにそのライターで火をつけて暖を取ることができた……」

速水「そこで朝まで過ごさなければいけない状況だったんですか?」

佐藤町長「だって降りられない。朝まで津波が来てましたから、ずっと……」

速水「そのライターの火が唯一の……」

佐藤町長「そうそう。お医者さんにも言われましたが、『もしあのときライターが使えていなかったら低体温症で死んでた』と」

速水「とにかく寒いですよね……」

佐藤町長「寒いっていう言葉では言い表せないくらい。例えるなら水風呂に入ってそのまんま雪山に居るのと同じ」

速水「それだけの状態から、“町を作るんだ!”という(気持ちになる)のは、ちょっと想像がつかないですね」

佐藤町長「それは私も同じ。あの防災庁舎にひと晩居たとき、“この潰れた町をどうやって立て直すの?”って……正直言って自信もないし。ただね、ここで43人が亡くなって、そのうち役場職員30名、当時33名いましたけど。我々は生き残って、あの夜火を焚いてみんなで黙ってあたりながら言ってたのは、『俺たちがこうして生き残ったのは“町を作れ!”っていう亡くなった彼らの思いだぞ! それが俺たちの使命だからな』って。その“思い”だけでここまでやってきました」

このインタビューを聞いた中西は「まだまだ知らない話ってたくさんありますよね。水風呂に入って雪山に居るのと同じってどれだけ寒かったことか……。佐藤町長が仰っていましたけど『俺たちがこうして生き残ったのは“町を作れ!”っていう亡くなった彼らの思いだぞ! それが俺たちの使命だからな』っていう言葉に全てが集約されていると思う。我々も残された者として、もう一度日本をしっかり作り直そうという思いを持つ想像力が必要」と、佐藤町長の言葉が心に響いた様子でした。