松尾芭蕉が訪れた多賀城跡に佇む石碑、壺碑

平安時代の歌枕としても有名な石碑です


今回は「政宗が育んだ”伊達”な文化」と題された宮城県の日本遺産の中から:おくのほそ道の風景地 壺碑(つぼのいしぶみ)をご紹介しました。

「壺碑」とは、坂上田村麻呂が
大きな石の表面に、矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑の事です。
平安時代の終わり頃から西行や源頼朝など
多くの人が「壺碑」を歌枕にして和歌を詠んでいましたが、
場所がどこなのかは分かっていませんでした。

その壺碑。江戸時代初めに多賀城跡で発見されました。

多賀城は、奈良・平安時代の陸奥国の中心都市であり、
11世紀の中頃まで、繁栄したと言われています。


その象徴ともいえるのが、多賀城入口近くに立つ「多賀城碑」


この多賀城碑こそが、「壺碑」だと言われ、江戸時代の文化人や学者は大いに注目しました。

松尾芭蕉が記した、紀行文の傑作「おくのほそみち」。
芭蕉はその旅路で、この多賀城跡にも訪れています。

芭蕉が訪ねた当時は野ざらしの状態で、石碑は文字を隠すほどの苔で覆われていたそうです。

水戸黄門の名前で有名な徳川光圀は、この状態を知り、当時の仙台藩主・伊達綱村に、石碑を保護する覆屋の建設を勧めます。
これを受けて間もなく覆屋が建てられ、今日に至るまで大切に守られるようになりました。



「泪もおつるばかりなり」―。
芭蕉が深い感激をもって対面し、古代より数多くの歌人が歌枕に詠んだ壺碑。


古代奥州の繁栄を現代に伝えるこの地を訪れ、和歌を詠んでみるのも一興ですね。

ぜひ、あなたも日本遺産へ。新たな日本の魅力を再発見してくださいね。