第72回


ゲストは、
競泳の萩原智子さん。


前回は、水泳を始め、
反抗期の終わりまでを
伺いましたが、今週は、
2000年のシドニー五輪の話から。




3ヶ月の反抗期が大きな壁となり、スランプを迎えた萩原さん。
「中学3年生で出した自己ベストを、4年間更新できなかったんです。
 4年間が長くて、長くて、、、スランプになりました。」
水泳は体幹が必要となり、水の中で曲がると抵抗になり記録につながりません。
さらに、精神力も、、、
「精神力を鍛えるには、経験が必要ですよね。あと覚悟。
 スタート台に立った時に、ダメだったらどうしよう、期待裏切ったらどうしよう、
 って思うんですよね。その気持ちとの戦いに勝って、飛び込めるかところですよね。
 スタート台で、”自分がどうしたいか”ってちゃんと分かった時、
 私は4年ぶりにベストタイムが出て、翌年シドニーに出場する事ができました」

オリンピックは、他の大会とはまったく違う独特の空気だったそう。
「いつもは笑って挨拶する海外の仲間とも、目を合わせないし。
 ある先生は、”武器の無い戦争”だっていうぐらい、ピリピリしてて」
決勝8人で泳ぐ前の控室では、大きな歓声で扉が揺れるそうで、
それに恐怖を感じたのだとか。

そして200メートル背泳ぎの決勝で、3位と0.16秒差で4位に。
「3位と4位の差は、人生をもって大きさを感じましたね。
 日本に帰ってきて道端でまったく知らない人に、
 ”税金使って行ってんのにメダル取れなくてどうすんだ”って言われたんですよ。
 人の顔色が変わるのが怖くて、3ヶ月くらい引きこもりましたね」
こんな経験から、日の丸を背負うという重い責任を感じ、
水泳やめようと、水泳用具も全て後輩に譲ってしまったそう。

そんな中、萩原さんを救ったのは1通の手紙。
「いろんな方が応援とか励ましの手紙くださってたんですが、
 60歳台の女性が、近況報告の手紙をくださったんですよ。
 ”萩原さんの決勝での背泳ぎが美しかった。
 60年間プールで泳いだ事なかったんですけど、
 翌日近くのスイミングスクールに入会して、今泳いでいます。楽しいです”って。
 それだけだったんですけど、それが何より嬉しくって!
 自分がオリンピックで泳いだ意味が1つでもあったって、そこで思えたんです。」


2002年大学4年生のとき、
萩原さんは横浜で行われた国際大会の会場で、低血糖で倒れ、過換気症候に。
その後1ヶ月半の入院、1年間の休養をされてから
2004年のアテネ五輪を目指し復帰されました。
「水泳を嫌いで終わりたくないなっておもって、
 挑戦して区切りをつけたいなって」と萩原さん。
大会で優勝したものの標準記録を切らなかった事で、五輪出場はならず、、、
そこできっぱりと引退を決意されました。

そして、2008年北京五輪では、リポーターとして活躍されました。
「開会式見てたら、オリンピックのマークが光って浮かび上がって。
 それを見た瞬間に、号泣しちゃって、もう1回出たい!って(笑)
本当に、理由は分からないんですよ。
0%だった選手への思いが、突然100%になったんです」
こうして、再び選手として五輪を目指す事になったのだとか!


M1. 別れの歌  /  忘れらんねえよ
M2. Oh Girl  / Paul Young
M3. Like A Prayer / Madonna